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百武彗星(6) 吉川善久さんからの寄稿 A 平成27年7月14日
今回は、百武裕司さんと旧知の間柄だったヨシカワ光器研究所代表吉川善久さんに、ご自身の貴重な体験になぞらえて 百武さんの人となりなどを前回に引き続き語っていただきました。
5 他例に氏の掃索活動を置き換えてみると
ああ、やはりそういう事なのか・・・と感じ取っていたただけるようにと願うが、もし分かりづらいとの向きが おありだったら、どうかご勘弁願いたい。
これは、私ごとで大変おこがましく思うが、かつて私が27〜60歳まで親しんだ中国の拳法功夫(Kung−Fu) を引用したい。
(因に、工場の傍らに建てたその道場の中味を天文関係の方が見学されたのは、後にも先にも、前述の上田聡氏と、 そのお仲間のY氏のみであった。)
功夫は、競技スポーツでもなければ、興行的格闘技でもなく、多くの日本武道の源流ともなった大陸文化の中の 伝統的護身武術。
(1)そこには次のような修練訓がある。
@ 拳を練って功を練らなければ、老いて一場の空となる。
A 功を練って拳を練らなければ、櫓のない船に同じ。
この場合、拳とは技そのもの、功とは身体の鍛錬をいう。
左 対人での自由げいこ(H17・・・メルボルンにて)
4番弟子の長女婿サーシャ・グレッグと。 めまぐる しく動く動体への目視力、反応の早さ、運動持久性を養う身体の鍛錬でもある。
右 木人でのけいこ(H12)
技そのものの仕組みを覚える。
一番弟子の面々と(H12)。 後列左端はイギリスから習いに来ていた青年イアン
@は、新しい技や珍しい技、つまり知識ばかりを追いかけて、身体の鍛錬をおろそかにすると、結局は何も身につかない という意味。
Aは、反対に、身体だけを鍛えても、その成果を発現する方法、すなわち技がなければ、たった1本の櫓がない為に、 船を漕げないのと同じで、せっかく鍛えた身体は宝の持ちぐされとなるという意味。
つまり、功と拳とは、車でいう両輪のようなものであると教えている。
(2)この訓に氏の掃索活動を置き換えてみると、
@の功に相当するのは、目視力とナーバスなまでの注意力、
Aの拳に相当するのは、機材と掃索方法・要領、
と言える。
氏を発見に導いたのは、これらがうまく車の両輪のように噛みあっていたからに他ならない。
6 発見後も先をめざして
(1)氏のあくなき実戦への意気込みには止むところがなかった。
自身に宿る「功」の行く方を自覚していたが故に、次の「拳」への新たな機材にも目を向けはじめた。
(2)先ず、発見後にやがて新たな職場となった当時の姶良町立スターランドAIRAでは、既存の20cm 望遠鏡よりも大きい機材で公的業務にも貢献したいとの願いから、40cm望遠鏡の導入に尽力した。
向かって左 故百武氏、右 私
(3)次に、個人的掃索に使う機材で、その製作の可否を私に尋ねてきたのは25cm双眼鏡である。
ただ、これが氏の奥様の耳にでも入ろうものなら、それこそ出費を巡っての大事となり実現しない。
内々に、そして奥様に考えるいとまを与えないよう早期完成の条件(陰謀?)が交わされた。
これは、製作図の作成中に氏が亡くなり、実現こそしなかったが、これも、氏の覗き続ける事への実戦中毒 症状を物語るものだった。
7 最後に
以上を書き述べてみました。
掃索に「志」をお持ちの方にとりましては、覗き続ける事を果たして全うできるだろうか、というご不安を 逆に抱かれたのではないかと憂慮いたすところでもあります。
しかしです。
折角やるからには、前文中でも氏の言葉にありましたような、中毒症状に陥って下さい。
視野に魅せられての中毒症状と、発見のみに捉われて継続を強いられるのとでは、伴う苦痛の質と度合いもきっと 違う筈です。
「志」の具現化をひたすらお祈り申し上げます。
ヨシカワ光器研究所代表 吉川善久
次回は、彗星掃索にかける思いを、現役彗星掃索家として著名な藤川繁久氏に語っていただきます。
連載 星空に夢を求めて「百武彗星」
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日々の日記 四季の高松
四季折々の身近なスケッチを日記風に記載しています